ぬけるような青空だった。
朝一番で、出勤途上の私に連絡が入った。
「プリンス・ウィレムの出航が決まった。撮影に行ってほしい―――」
1985年から、長崎オランダ村と苦楽をともにしてきた船の、突然の離日だった。

17世紀オランダの木造帆船「プリンス・ウィレム」。全長73.5メートル、幅14.5メートル、総トン数2,000トン。メインマストの最大高は56.5メートルで、そのままでは西海橋をくぐれないほどの巨大さである。事実、17世紀最大にして最も美しいとまでいわれた帆船であった。1650年、オランダ南部最大の貿易港であるミデルブルグで進水、1651年バタヴィア(現在のインドネシア・ジャカルタ)へ処女航海。乗組員200名、武装は大砲30門。1652年の蘭英戦争ではオランダ海軍に接収され、「タウンズの戦い」に旗艦として参戦。終戦後再び連合オランダ東インド会社(V.O.C.)の商船として活躍したが、1662年バタヴィアからの帰途、大海原に散った。

それから3世紀もの時が過ぎ、1985年、プリンス・ウィレムは往時の姿のままに甦った。
きっかけは1983年、長崎オランダ村オープンを祝ってオランダ政府から寄贈された同船の精緻な模型に、同社の神近義邦社長(当時)がいたく感動し、その場で代表者の手に戻し「これを復元して欲しい」と依頼したというのだ。
その後、当時の資料とその模型を元にオランダ・フリースラント州マックム市のアーメルス造船所で復元、巨大な浮きドック式の台船に乗せられて海を渡り来日。村のシンボルとして係留され、以後16年間、来園者の圧倒的な人気を集めた。

17世紀オランダの港町を再現したオランダ村のその風景は一見、誰の目にも当たり前の光景に見えただろう。
しかし実際には、巨大な船体を当時のアンカー(錨)だけで係留するのは不可能で、海底には特殊なスタビライザーが数機、打ち込まれて固定されていた。1991年9月27日、まだ建築中だったドムトールンさえ震わせた超大型台風19号をはじめとする暴風雨にも、それは耐え続けた。

―――2001年、長崎オランダ村は無期限の休園となったが、その後も、プリンス・ウィレムは村を見守り続けた。雨の日も、風の日も。
今年8月、オランダのデン・ヘルダー市に2004年オープン予定の、海をテーマとするテーマパークが受け入れ先に決まった。売却価格は100万ユーロ。『故郷(くに)へ帰る』と聞いて、安心したのも事実だが・・・正直、寂しかった。

オランダ村に着いてみると、西彼町のはからいだろう、地元の中学生や幼稚園児ら約400人が集まってくれていた。手作りの赤青白3色のオランダ国旗を振り、プリンス・ウィレムを曳航する数隻のタグボートが作業を進めるのを興味深そうに見守っている。
見送りの中には、懐かしい人もいた。地元のメディアも来ていた。空にはヘリコプターさえ飛んでいた。低く飛ぶその爆音の中で、プリンス・ウィレムは出航しようとしている。紅蓮のライオンのフィギュアヘッド(船首像)が、いつもと変わらず波頭を見つめていた。

町長の挨拶をはじめとする短いセレモニーが終わり、いよいよ、出航の時が近づいた。

タグボートから張られたロープにピン、とテンションがかかり、巨大な船体が音もなく滑り始めた瞬間、カメラを回していた同僚は胸が熱くなったという。
―――いつまでも変わらずにそこにあると信じていたものが、不意にいなくなってしまう瞬間。
もう、オランダの建物越しに見えるマストと、そこにひるがえる旗を見ることはないのだ。

タグボートの巧みな曳航で、プリンス・ウィレムは18年もの時を過ごしたオランダ村を後にした。
オランダの児童小説に題材を取った『ボンテクー船長付きの三人の少年給仕たち』の銅像が、まるでその本の中の1シーンのように、去っていく船体を見送っている。
港を遠ざかる、その船影。
「行っちまった・・・」
古いスタッフがそう呟いたが、本当の出航準備は―――、これからだった。

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